ご紹介をいただきました。埼玉県立高校で10年ほど勤め、縁があって名古屋の女子短期大学・その後改組され、大学に28年勤めました。大学の定年は70才なのですが、早めに退職し、フリーになりました。とくに不祥事があったわけではありませんで、ご安心いただければと思いますが、、、教育文化総合研究所の研究会議のメンバーにさせていただいて、時折、「教育と文化」にも執筆させていただきました。そのようなこともあり、今回、お招きいただいたと思っております。ぜひ、皆さんともやりとりしながら、一緒に学ぶような場になったらと思っております。

 

アイスブレイキングとして、いくつかのお題で、一列にならんでみましょう。

「この夏、リフレッシュした」「今の仕事にやりがいを感じている」

「生徒は将来に不安を感じている」「今の世の中に不満をもっている」

(近所の方とやりとりをしながら、すすめました)

 

サブタイトルを「わたくしたちの願いはどこに」とさせていただきました。わたくしが高校教師になったのは急増期でした。今、採用試験を受けたら、きっと採用されないと思っています。その頃をふりかえると、ずいぶんいいかげんだったと反省しきりです。弱々しかったので、頼みやすかったのでしょうか、生徒からいろいろ頼まれたようにおぼえています

 

では「わたくしたちの願い」をだしあってみましょう。

 

別のところで、高校生や大学生に「これまでいったい何を学んできたのでしょうか/皆さんは何ができるようになったのでしょうか」という問いについて紹介したことがあります。高校生や大学生が身につけたのは「集団行動、規律や時間を守る、がまんをする」ことだというのでした。

 

なるほど、遅刻をするなとか、課題をしなさいとか、そうしたことを言っていたのを思い出しました。学習習慣の形成が指導の柱になっていたわけです。このようなこたえが、かえってきたのは、学校教育がみごとに成功していることの典型だといえると思えてなりません。現在、創造性を育むとか、教育改革がとりざたされていますが、学校という装置がもっている「かくれたカリキュラム」(ヒドゥン・カリキュラム)が変わらなければ、創造的であることを押しつけることじたいが、二重メッセージとして矛盾したものになってしまいます。あとで紹介するディビッド・セルビー(David Selby)さんのセミナーで示された図は、民主主義を勉強するのに、質問はするな、というものでした。

 

教育改革がすすむとして、現在、教育産業は「必要な能力を身につけ、未来を生き抜けるよう、応援する」というふうに宣伝しています。

https://www.benesse.jp/kyouiku/kyouikukaikaku/#movie

何が必要なのか、どのような未来なのかが皆、心配になります。不安に思う保護者はこういった教育産業にとりこまれていくのではないでしょうか。

 

他方、全国教研の要綱に、世界人権宣言やユネスコ「学習権宣言」(第4回ユネスコ国際成人教育会議(パリ)宣言,1985)が所収されていますが、「学習権宣言」には次のようにあります。

 

「学習権とは、読み書きの権利であり、 問い続け、深く考える権利であり、 想像し、創造する権利であり、 自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、 あらゆる教育の手だてを得る権利であり、 個人的・集団的力量を発達させる権利である」

 

抑圧されていた民衆が自由を獲得し、自身が歴史の主体となるために、そうした学習権宣言にもとづく教育が基盤となるわけです。

 

しかし、昨今の教育改革への要請は財界からの要請、経済産業省が描く「未来の教室」や EdTech 構想にみることができます。それは、わたくたちの「未来」をひらくものになるのでしょうか。教育によって、わたくしたちが自由となるのか、抑圧に隷属する、適合するためのものか、問いつづけなければならないと思うのです。

 

教育改革は、教育基本法改訂(2006)にみられるように、粛々と、実行されてきています。その源は、財界、官邸・教育再生実行会議であり、その提言のもと教育振興基本計画が策定され、数値目標がかかげられ、いわゆる PDSCサイクルをまわすということがなされるようになっています。

 

大阪市長が全国学力テストの結果を教員人事評価や給与、学校予算に反映させる、という報道がありました。まるで米国において公教育を破壊したやり方とそっくりです。

 

全国で学校自己評価がなされ、たいへんな負担のようです。埼玉での事例です。

https://www.pref.saitama.lg.jp/f2207/gakkou-hyouka/documents/443976_2.pdf

 

https://www.pref.saitama.lg.jp/f2207/gakkou-hyouka/index.html

 

「生徒の自律心を育成する」の項目が「元気に挨拶する生徒が増えたか」や「交通事故が減少したか」だったりしています。こうした評価が本来なのか心配になってしまいます。

 

数値目評を掲げ、それに対する達成度をあらわすのに、教育効果は、すぐに数値にあらわれるものではないということは、誰しも知っていることですが、エビデンスが求められるようになってきています。高等教育の質保障の要請から、基準協会による大学認証評価の手続きに、関係者が忙殺されるという話しもよく聞きました。

 

教育改革の一つに「養成・採用・研修の一体化」があります。横浜市教育委員会では「教員のキャリアステージにおける人材育成指標」では「キャリア」を3つのステージにわけて示しています。

http://www.edu.city.yokohama.jp/tr/ky/k-center/shihyou-1.pdf

 

第1ステージ:校内研究会や他校の授業研究会に積極的に参加し、授業に生かす。

第2ステージ:校内研究会・校外研修会の企画・運営に携わり、授業力やマネジメント力の向上を図る。

第3ステージ:研修会で得た情報や自らの実践を広く情報発信して、自校の教育活動に生かす。

 

このように段階的にわたくしたちは「キャリア」を歩むものではないように思えてなりません。現場は、もっと有機的で、ダイナミックなものでしょう。

 

さて、教育にたして、誰でもものを言う時代になりました。官邸・内閣府は Society 5.0 というあらたな社会を描いています。Society 5.0は科学技術政策としてだされたものですが、政策に「横串」をとのことで、2018年度の経済財政報の副題が「今、Society 5.0の経済へ」となっていたり、文科省もSociety5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会での報告をだし、あらゆる施策に反映されています。

http://www8.cao.go.jp/cstp/society5_0/index.html

 

Society 5.0は 「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」の実現をめざすとあります。

 

IoT(Internet of Things), AI(人工知能)が鍵とされます。経団連も「Society 5.0実現による日本再興」という提言・報告書をだしています。おおいなるビジネスチャンスというわけでしょう。

http://www.keidanren.or.jp/policy/2017/010.html

 

また、Society 5.0は、SDGsの達成に大いに貢献するものと描いた図もあります。

https://www.keidanren.or.jp/policy/cgcb/2017shiryo2.pdf

 

文科省もSociety 5.0のために「学習の個別最適化や異年齢・異学年など多様な協働学習のためのパイロット事業、スタディログによる学びのポートフォリオ、EdTecとビックデータの活用」の3つのことがすすめられるとしています。

http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/detail/__icsFiles/afieldfile/2018/06/06/1405844_001.pdf

 

Society 5.0が画期的であるかかのような描き方は腑に落ちません。時代区分をするというのは歴史学のつねですが、社会はより複雑なはずです。社会は右肩あがりに成長するという、進歩主義にとらわれているように思えます。また、グローバル社会を支える多国籍企業は、大量生産大量消費を前提にしているように思えてなりません。さまざまな技術によって「質の高い生活」が実現されるのは当然ですが、その際、人権はどう実現されるのでしょうか。疑問がのこります。

 

消えた仕事・消える仕事をがあると、教育現場に不安感をあおり、変化する社会に対応する○○教育が持ち込まれます。Society 5.0が技術革新によって構想されているわけですが、2045年にはテクノロジーの進化が無限大になるとの指摘があります。Society 5.0と教育を連動させEdTechが提案されています。そのなかみとして次のようなことがあげられています。

 

 オンライン講座のようなコンテンツ事業

 学習コンテンツを提供するプラットフォーム

 児童・生徒・学生および教員(研修)支援のためのツール

  タブレットの活用(試験/採点)

 ポートフォリオ:子どもの状況を把握し蓄積する

 児童・生徒・学生・教育とのソーシャルネットワーク

 

今は、グローバル化に対応する教育が花盛りです。1995年ころから、イギリスで展開されたワールド・スタディーズやグローバル教育に関心を持ちました。故河内憲子さんがカナダからセルビーさんを何度か大東文化大学に招き、セミナーをしたことがありました。そうした縁もあり、1996年からカナダで、毎年5年間、2週間ほどのセミナーを小中高の教員と教育NGOの皆さんとしたことがあります。セルビーさんは、現在は、英国に戻り、サステイナブル・フロンティアというNGOで気候変動教育を推進しています。以下、英語サイトです。

http://www.sustainabilityfrontiers.org/index.php?page=david-selby 

 

セルビ−さんらの著書ですが、D.セルビ−&G.パイク『地球市民を育む学習』(明石書店, 1997)Global Teacher Global Learnerは古典ともいえるものです。セミナーがきっかけでセルビーさんのところで学んだ小関一也(常磐大学)さんが『グローバル・クラスルーム—教室と地球をつなぐアクティビティ教材集』(明石書店, 2007)In the Global Classroom が監訳されたものを紹介しておきます。

http://www.tokiwa.ac.jp/~oseki/index.html

 

NHKの「プロフェッショナル」という番組で取材をされた鹿嶋真弓さんは、構成的グループエンカウンターで知られていますが、そのなかで使われた「権利の熱気球」はセルビーさんのセミナーでは定番でした。

 

セルビーさんは(民主主義を教えるのに、教え方・学び方が民主的になるように)内容と方法の統合を提起していました。アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び)がとりざたされていますが、1990年代に参加型学習として、紹介されたグローバル教育がまさにそれだったように思えます。環境・開発・人権・平和ほかのテーマを、参加型で、あらゆる教科であるいは教科をつなげて学ぶというものです。

 

同じ頃、コロンビア大学のベティ・リアドン(Beaty Readon)さんをはじめとする海外の平和教育を日本に紹介するようなことをはじめました。Learning Abolish Warを『戦争をなくすための平和教育』(明石書店)として監訳・共訳しました。今は絶版で、お読みになりたい方は、お申し出いただければと思います。

 

2000年は、国連がさだめた平和の文化国際年でした。ユネスコを中心に「わたしの平和宣言」という次の6つの項目からなる宣言に署名をするとりくみもすすめられました。

 

1「すべての生命を大切にします」 

2「どんな暴力もゆるしません」

3「思いやりの心を持ち、助け合います」

4「相手の立場に立って考えます」

5「かけがえのない地球環境を守ります」

6「みんなで力をあわせます」  (連帯を再発見/再構築 )

 

これには、人類は生まれながらにして暴力的ではないとしたユネスコによる「暴力に関するセビリア声明」(1996)の精神が反映されたものといえます。戦争は文化の所産であるから、平和の文化を促進することにより、戦争をなくすことができるというものです。

 

1. 動物は戦争をするし、人間も同じ動物だから、戦争を終わらせることはできない。

2. 戦争は人間性の一部だから、終わらせることができない。

3. 人間も動物も暴力的なものがよりよく生きることができ、子どもを他のものよりも多くものをもつことができるのだから、暴力は終わらせることができない。

4. われわれの脳のために、われわれは暴力的でなければならない。

5. 戦争は「本能」によって引き起こされる。

これらのすべてではないということ。

 

2000年以降、世界の子どもたちのための平和と非暴力の文化国際10年とされ、また、2000年から2015年には、ミレニアム開発目標(MDGs)へのとりくみがなされ、以降、2015年から2030年まで、SDGs(持続可能な開発目標)の達成にさらに15年とりくむことになりました。加盟国での政策がこれに連動することになっています。

 

SDGs(持続可能な開発目標)は次の17の分野別の目標と、169項目のターゲット(達成基準)からなっています。

 

1. 貧困をなくそう

 2. 飢餓をゼロに

 3. すべての人に保健と福祉を

 4. 質の高い教育をみんなに

 5. ジェンダー平等を実現しよう

 6. 安全な水とトイレを世界中に

 7. エネルギーをみんなに、そしてクリーンに

 8. 働きがいも経済成長も

 9. 産業と技術革新の基盤をつくろう

10. 人や国の不平等をなくそう

11. 住み続けられるまちづくりを

12. つくる責任つかう責任

13. 気候変動に具体的な対策を

14. 海の豊かさを守ろう

15. 陸の豊かさも守ろう

16. 平和と公正をすべての人に

17. パートナーシップで目標を達成しよう

 

MDGsを達成するには教育が重要で、ESD(持続可能な社会のための教育)の10年が2005年から2014年まで展開されました。これまでの教育のあり方をかえるという提案は魅力的でした。日本では、かってユネスコ協同学校のとりくみがありましたが、再度、ユネスコスクールとして普及させ、現在、1,149校となっていますが、人権や平和をテーマにするところが少ないのはざんねんです。

http://www.unesco-school.mext.go.jp/

 

本来は平和を追求するグローバル教育も、グローバル化に対応するグローバル○○育成が花盛りです。スーパー・グローバル・ハイスクールというと英語教育の推進がもっぱらです。なかみがあっての英語教育のはずですが、スキルや試験での成果のみがとりざたされます。

 

指導要領改訂においては「社会に開かれた教育課程」「カリキュラムマネジメント」「コンピテンシー」など、また高等学校では公共や歴史総合、他に学校図書館の利用や他との連携など課題は山積みですが、目玉の1つとして、小学校英語の教科化があります。そのための研修や教材整備や特別免許状制度の活用、小学校教員を対象とする中学校教諭二種免許状(外国語(英語))の免許法認定公開講座など、さまざまな施策が矢継ぎ早になされています。

 

中学高校では、英語教育実施状況調査がなされ、結果が公開され、生徒・教員の英語力に係る英語教育改善計画を策定を求めるようなこともなされています。本来、何のための計画か問われなければならないと思いますが、どうも計画を実施することが前提となっているような気がしてなりません。試験の点数ということではなく、外国語を学ぶということが、本来、どういうことなのか、多文化共生への視点があってしかるべきでしょう。

 

教研の外国語部会では次のような目的論をつみあげてきています。

目的論(教研・外国語教育分科会)
(1) 外国語の学習をとおして、世界平和、民族共生、民主主義、人権擁護、環境保護のために、世界の人びととの理解、交流、連帯を進める。
(2) 労働と生活を基礎として、外国語の学習で養うことができる思考や感性を育てる。
(3) 外国語と日本語とを比較して、日本語への認識を深める。
(4) 以上をふまえながら、外国語を使う能力の基礎を養う。

ほか、大学入試では外部英語検定試験を利用するための成績提供システムが設置されることとなり、準備がすすめられているようです。

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/30/03/1402610.htm

 

参加要件を満たすとされた試験の概要が開示されています。

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00033010.pdf&n=04_概要一式.pdf

 

生徒の実態を踏まえて、目標を設定しなければならないのに、以下のように、かい離があるように思われます。

http://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/gaikokugo/__icsFiles/afieldfile/2018/04/06/1403470_03_1.pdf

 

いずれにせよ、グローバル化は、英語教育によってのみなされるものではありません。セルビーさんから学んだグローバル教育のグローバルには、包括的な、全体的なという意味がありました。地球を宇宙から眺めるような、また、連綿とつづく生命の歴史に、今ここでのわたくしがある、ということ、すべては連関していて、相互依存をしているということ、これらは東洋思想にも通じるようにも思います。わたくしが、この地球・宇宙の一部であるという意識を持つということ、世界とわたしのつながりを問うことでもあります。

 

わたくし(たち)は、どこから来て(内に向かう旅)、そしてどこに行くのか(外に向かう旅)をつづけているともいえるでしょう。グローバル教育はこれら二つの方向性が統合される学びを構想しています。こうした教育は、なにも英国やカナダでの目新しいものではなく、戦後、展開された総合学習もそうであったし、子どもを中心とした現場の実践は、まさにグローバル教育だとも思えてなりません。

 

東井義雄は「「勉強すればする程、冷たい人間になるような、そういうかしこさ」を退ける」と述べました。

 

上田薫は:「これまでの教育では、その内容を中央できめると、 それをどんなところでも、どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした」「型のとおりにやるのなら教師は機械にすぎない」「児童青年のその地域における生活の特性によって、地域的に異な るべきものである。」と述べています。(戦争証言アーカイブス 戦後日本のあゆみ NHK)

https://cgi2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0012100425_00000&seg_number=001

 

こうした戦後の民主教育の財産から、再度、学ぶ機会があったらよいと考えます。

 

いずれにしろ、何のための教育改革なのか、教育再生実行会議の動向を注視する必要があります。

http://www.kantei.go.jp/jp/headline/kyouikusaisei2013.html

 

2015年に課題として、今後の検討事項があげられていました。

https://www.kantei.go.jp/jp/topics/2015/kyouikusaisei/kyouiku_kadai_20151009.pdf

 

「情報化時代に求められる『多様な個性が長所として肯定され活かされる教育』への転換」をテーマとし、「コンピュータで代替えできない志、創造性、感性など/社会の多様性」から「これまでの学校教育の強み:学級などの集団の教育力を生かした指導」は「引き続き大事に、弱み:多様な個性に応じたきめ細かい対応」をする必要性があり、「他と違うことを『駄目なこと』ではなく、これからの日本に必要な『多様な個性』として、積極的に認め、受け入れ、その力を最大限に伸ばし、生かせる学校教育、社会へ」とあり、ICTの活用ほかをすすめるとあります。

 

多様性を尊重することは、人権を実現することになるはずです。「カリキュラム提言 ゆたかな学びにむけて」にあるように当事者、子どもの声を聞き、たいせつにしたいものです。情報化がすすみ、知識は瞬時に手に入る時代になりました。知識が賢者に独占されていたのが、そうではなくなりました。ただし、専門性は高まり、科学やリスクにたいして、素人は蚊帳の外になっていますが。

 

おおきな変化に対応しなくては、という危機感から不安をつのります。他方、社会にたいする不満は隠蔽されているようです。不満から、社会問題を見出し、連帯をするなかで、変化をつくりだしていくことが、できるようになるのかもしれません。学んだことで、自由を獲得するような教育実践を、みずからすすんで不自由になることがないような「ちから」をつけていきたいと思います。

 

それでは、何を学校で学ぶのでしょうか。大きな波に翻弄されるなかで、学校でしか学べないことがあるのではないでしょうか。仲間とともに仲間から学ぶということ、競争がはびこる世の中で、仲間と協働する文化を学校でつくれたらよいと思います。

 

淺川 和也

https://globalenglishteaching.jimdo.com

 

https://globalenglishteaching.jimdo.com/talk/5/

山形県高等学校障がい児学校教職員組合にて